好き嫌いの感覚を大切にすることの大切さについて

意識・無意識・プログラム

みなさま こんにちは

いつもお読みくださり
ありがとうございます。

先日のワークショップ
「好き嫌い」の価値について
考えてみました。

幼少期に親から
「好き嫌いしないで食べなさい」とか
「あの子が嫌い、この子が嫌とか言わないの」
とよく言われていました。

それが今でも心のどこかに引っかかっていて
好き嫌いを言うことはよくないと
無意識に感じていることに気がつきました。

でも、好き嫌いの価値を調べていたら
この感覚ってとても大切だと気がついたんですよね。

精神科医の泉谷閑示さんと言う方の著書『反教育論』(講談社現代新書)
に以下のようなことが書いてあります。

たとえば、「好き・嫌いなく何でもよく食べる子供に育てましょう」といったスローガンは学校などでかなりおなじみのものであるが、このような考え方の社会に私たちは育ち、また、それを疑いもなく次世代へのしつけや教育のポリシーにしてきた。
このような考え方の根本には、「好き・嫌いがあるのは良くないことである」という価値観が横たわっている。この価値観が、直接的にではないにしろ、「自分が何がしたいのかわからない」という人間を生み出す精神的な土壌になっていることを見落としてはならない。
(中略)
「好き・嫌い」という最も自然な「心=身体」の反応を、あたかも悪であるかのように封じ込めるということは、何を食べても好きとも嫌いとも感じないような、いわば不感症の人間を育てようと躍起になっているようなものである。
現代人に多い「何が好きなのかわからない」「自分の感情が動かない」「自分の感覚が信じられない」といった感情・感覚の動かない離人症的問題の背景には、このように「心=身体」を軽視した人間観に基づいて行われる教育やしつけの問題が横たわっている。
(中略)
もちろんこのような問題は、食生活のみに認められるわけではない。
人が何を学ぶのかといったことについても、「好き・嫌い」という感覚が重視されずに、浅く広く学ぶことを求められる状況がすっかり定着している。
その結果、大学進学や就職といった進路選択を行う頃には、もうすっかり本人の中から「好き・嫌い」を発する「心」の声が聞こえなくなってしまい、「就職に有利だから」「食いっぱぐれがないから」「人気があるから」「安定しているから」といった他律的な動機によってしか決められない状態に陥ることになる。

泉谷閑示・著『反教育論』(講談社現代新書)

自分もそうなんですが
なんでもできることが「良し」とされた中で生きてきたため
いざ「好きなことをして生きよう」と言われても
何が好きなんだかわからなくなっている人って
多いと思うんです。

「好き嫌い」という感覚は
「快不快」にも直結し
生きるためのモチベーションにもつながる
大切な感覚ですよね。

自分のやりたいことがはっきりすると
自然に生き生きしてきますし
結果として人の個性も認められ
その結果、より自分のことが好きになっていくと思うんです。
さらに時間やエネルギーを自分のやりたいことに集中できるので
また楽しくなって、、と言う好循環が生まれてきます。

もちろん
手当たり次第、好き嫌いを言うことが
良いことではありません。

忍耐も時には必要ですよね。

でもそんな時にも
「自分は本当はこれが好き」
ということを心の中で
はっきりさせておくことは大切だと思うんです。

我慢しすぎて
心の声が聞こえなくなる前に
好き嫌いを表に出す機会を作ることで
本当にやりたいことを
やれる人生を送れるようになるのではないかと
思ったのでした。

最後までお読みくださり
ありがとうございます。

今日も素敵な1日を
お過ごしくださいね。

ではでは!

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