あるところに
本当になんでも頑張る方が
いらっしゃいました。
その方は
本業もお忙しいのに
あれもこれも本当によく気がつき
細かいことまで完璧にこなします。
すごいのですがその方といると
非常に緊張します。
あまりにきちんとされているので
至らない自分は
いつどこからか
責められるのではないかと
無意識にバリアを張ってしまうのです。
「頑張る」は
今では美辞として使われていますが
そもそもは
「頑を張る」が語源なのだそうです。
ここからは
宗教思想家のひろ・さちやさんの
『東洋経済オンライン・「頑張る」ことの本当の意味』
から引用させていただきます。
ー・ー・ー・ー・ー・ー
頑張るということは、実は自己中心的になるということです。
自分を押し通す、それが頑張るということです。競争し、
自分の利益を優先させることが頑張ることなのです。
私が子どもの頃は、「あの人、頑張ってはるなあ」というのは
軽蔑の意味を込めて言われたものです。
「もっと温和になればいいのに」という意味でした。
それがいつの間にか「頑張る」が美辞になってしまいました。
おかしいですね。
インドの民話にこんな話があります。
ある大金持ちが99頭の牛を持っていました。
あと1頭手に入れれば、切りのいい100頭になる。
そこでわざわざオンボロな服を着て、
1頭の牛で細々と暮らしている幼なじみの家を
訪ねました。大金持ちはその幼なじみに、
「お前はいいなあ。俺は何も食べるものが
なくて貧しいんだ。昔のよしみで
なんとか助けてくれないか」
と泣きつきます。すると幼なじみは、
「私はこの1頭の牛がいなくても、
女房と力を合わせればなんとかなる。
牛を差し上げよう」とお布施をしたのです。
大金持ちは100頭になったと喜んで帰りました。
幼なじみも友達を助けたと喜びました。
はたしてどちらの喜びが本物でしょう?
というのがこの民話の終わりです。
私は思います。きっとお金持ちの喜びは
たった一晩だけだろうと。彼は翌朝目を覚まして
「よしこの次は150頭を目指して頑張るぞ」
となると思うのです。
彼はいつまでもあくせくし、いらいらし、
がつがつした人生を送るでしょう。
こうした人生が頑張る人生です。
これに対し、貧しい幼なじみの喜びは
永遠の喜びではないかと思うのです。
友達にいいことができた、あとは女房と
力を合わせて働いていこう。
自分のものを差し上げることによって
心が満ち溢れ、ゆったりとした心持ちで
人生を送れると思うのです。
実際に、この幼なじみのように実践するのは
難しいでしょうね。それでいいのです。
宗教は羅針盤です。
行くべき方向を教えてくれるものです。
人生では、行くべき方向にはなかなか進めません。
そうしたときでも、本当は行くべき方向が
あるという意識を忘れなければいいのです。
やらざるをえないからやっているということを
忘れないことが大切なのです。
(引用終わり)
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
このインドの民話を読んでいると
大金持ちの男が良くなくて
幼なじみが良いという観念を持ちがちですが
これからの時代
そういうことではない気がします。
頑張ることは
ときに自分を向上させてくれます。
「頑張る」自体は
いいも悪いもないものだと
思うのです。
それは「包丁」が
使い方次第で
美味しい料理を作るために使う道具になったり
人を刺し殺すために使う凶器になったりするのと
同じことです。
「頑張る」を
自分や周りの人を幸せにするために使っているのか
自分や周りの人を傷つけるために使っているのか
俯瞰して見られるようになりたいと思います。
ですが現実はなかなかうまくいきません。
もう条件反射になっているからです。
良かれと思ってやっていることが
実は人を傷つけることもあります。
そんなことわかっているけど
やめられません。
大金持ちの男だって
生まれたての頃から
そんな性格ではなかったと思います。
条件反射的にものを考え
生きているだけなのです。
それで良いというのも違いますが
善悪の概念の中で
語るのは限界があるのです。
ですが
ひろ・さちやさんがおっしゃるように
「実際は人を傷つけることが多いとしても
本当は行くべき方向がわかっている」
という気持ちは忘れずにいたいと思います。
そして
「やらざるをえないからやっている」と
認識した上で頑張るのであれば
周りのとらえ方もずいぶん変わる気がします。
ではね!
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