親戚に
某地方の村で
とても大きな漆塗り問屋を
やっていた家族がいます。
ですが最近
経営がうまくいっていないと
聞いていました。
その後
父から
家族の中の一人が
ある事件を起こしたと
聞きました。
そのせいで
村では
家族揃って後ろ指をさされ
漆塗り問屋も廃業しなければ
ならなくなってしまったのだそうです。
先日、そんな家族の一人とあったのですが
彼女は最寄駅の構内にあるコーヒーショップに入るのも
怖がっていました。
「そこで誰かにみつかって
あんなことがあったのに
コーヒー飲んでいる、と言われたら怖い」
と言っていました。
事件は直接彼女には関係ありません。
ですが、とても人の目を恐れていました。
いくら外部のものである自分が
「それは妄想ですよ」
と言っても
聞き入れてもらえません。
家業も廃業になったわけですし
その村にとどまらなければいけない理由も
ありません。
都会に移住することを
お勧めしたのですが
「この村で築いたご縁もある。
後ろ指さされても
この村にいたい」
と言うことでした。
こういうとき
身内であればあるほど
「もっとこうすればいいのに」
とか
「なんとか自分が助けてあげたい」
とコントロール思考が出てきます。
ですが、それは
相手からすると
「今の自分はダメなんだ」
という強烈なメッセージになってしまう
気がしました。
苦しいのは
今の世の中の価値観から
ものごとを捉えているから
かもしれません。
俯瞰した目でみたら
どんな惨めな状況も
それを体験しにこの世にきたのかも
しれません。
「惨めな状況」というのも
価値観です。
それが違う云々というのも
三次元的な考えなのかもしれません。
そう考えると
今、自分が彼女にできるのは
そこで頑張っている彼女を
心から尊重することではないかと
思ったのです。
そんな目で
向き合うと
表面的には憔悴した表情の奥に
一筋の光のようなものを
感じたのでした。
生きている限り
答えはわからないように
できているのかもしれません。
わかってしまったら
生きることに
必死に臨めなくなってしまいます。
だからご臨終(臨むのを終わらせる)
というのかもと思いました。(個人的意見です)
いろいろ考えさせられた
出来事でした。
ではでは😌
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