幼いころ、家で金魚を飼っていました。
大切に大切に育てていて、
名前もそれぞれにつけていました。
当時、テレビで
「魔法使いサリー」というアニメをやっていて、
名前はみんな
「すみれちゃん」とか「カブ」という
登場人物名にしていました。
ある日、一番可愛がっていた
「すみれちゃん」が亡くなってしまいました。
ほんとうに悲しくていつまでも泣いていました。
そんな私に母がお墓を作るように提案しました。
穴を掘って、力を失った「すみれちゃん」を土の中に入れるとき、
何ともいえないやるせなさがこみあげてきました。
土をかけて埋め、目印に石を重ねて置きました。
幼稚園がキリスト教系だったもので、
神様にお祈りした気がします。
そんなこんなで
その日の午後はひとりで喪に服していました。
ですがその夜、
夕食にアジの開きの干物がでてきたのです。
私はそれを目の前に絶句しました。
「すみれちゃん」と
目の前のアジの違いがわからなかったからです。
とても死んだ「すみれちゃん」を
焼いて食べようとは思いません。
同じ魚なのに
どうして片方は食べられて
片方は食べられないのか、
まったく理解できませんでした。
しかし、そんな質問をできない雰囲気が
家にありました。
私が食べられず残していると母は、
「栄養があるから食べなさい。
食べられない子はうちの子じゃない」
と言います。
仕方なく食べましたが、
どうしても違和感が残りました。
当時
出されたものを何でも残さず食べるのが
うちの方針でした。
母に強制されているうちに、
次第に感覚が薄れてきました。
それは他の牛、豚、鳥肉にも感じていました。
「ビーフ」「ポーク」「チキン」と名称を変えることで
人間の都合よく消費していくことに
言語化できませんでしたが
違和感を覚えていました。
他にもさまざまなことに疑問を持ちながら、
結局誰にも聞かずに大人になった気がします。
ですが心のどこかで
引っかかり続けていたのです。
引っかかっていたのに
上から何かで埋めているうちに
引っかかりは見えなくなっていました。
コーチングを学ぶようになり、
人間のプログラム(無意識に繰り返すパターン)と
その構造を理解するにつれ、
本来の自分の思っていることが
顔を出してきました。
「本当に好きなもの」
「本当に食べたいもの」
「本当にやりたいこと」は何なのだろうと。
残りの人生は
そんな心の声に耳を澄まして生きていきたい
そう思うようになりました。
それがわかるようになると、
どんどん足かせがはずれ自由になります。
今では肉も魚もほぼ食べません。
ですが外食などで
出てきた時には
ちゃんと感謝して食べています。
そこに「絶対食べない」という力もないのです。
人が「絶対」を言うとき、
そこに何かしらのプログラムがあります。
本来の自分の声にしたがっているとき、
状況に応じ、違和感なく選択できる自由があるのです。
世の中を生きていく上で
知った上で選択する自由があるというのは
人をパワフルにします。
このホームページを立ち上げたのは、
コーチングやブログ、小説を通じて皆さまに
「本来の自分の生き方」を
思い出していただけたらいいなと思ったからです。
パワフルな自分で
本当の自分を生きてみませんか?
ではね!
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