みなさま こんにちは
いつもお読みくださり
ありがとうございます。
今朝のワークショップで
「マンネリ」の価値について
考えてみました。
デジタル大辞泉「マンネリズム」の解説
マンネリズム(mannerism)
手法が型にはまり、独創性や新鮮味がないこと。マンネリ。マナリズム。「マンネリズムを脱する」[類語]お定まり・お決まり・単調・平板・類型的・没個性的・一本調子・千編一律・モノトーン・ワンパターン・マンネリ・ステレオタイプ
出典 デジタル大辞泉 https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0-161936#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
「マンネリ化する」って
あまり良いことに使われないですよね。
水戸黄門とか
サザエさん的なドラマや
ワンパターンの芸人さんとか
家族の間でも
いつも同じことで喧嘩になるとか
もうやめたいのに繰り返してしまうことって
誰にでも一つや二つあるのではないでしょうか。
例えば
「水戸黄門を見ていて最後に黄門様が印籠を出してきた」
とします。
それを見て「またこれか」と思うんですが
ほかに特に面白いものもありません。
なので
仕方なく見続けているとします。
(とはいえ印籠出さないとがっかりするんですが)
そこにあるのは
選択肢の中でマシ、
というちょっと諦めが含まれた感覚です。
で、「マシ」を掘り下げてみると
退屈な感じがしますよね。
退屈って語源を見ていきます。
「退いて屈する役人」というのが語源のようです。
中国の去勢された宦官という役人を思い出しました。
そこから
退屈→マンネリって、
諦めて自分の意思がとられているように思えたんですね。
どちらかというと
受動的に見させられている何かに対して
不満に思う気持ちがあり
でも自分ではどうすることもできず
マシの中で鬱屈としている感じがしました。
自分の意思がとられているって
自分を生きていない感じがします。
それは
仕方のないことのように
捉えているんですが
結局は外の何かのせいにして
責任転嫁しているだけなんですよね。
自由意思があるのに使っていないのは
自分なんですね。
思考が勝手に同じことを考えさせるとか
感情の波に流されるとか
思考のせい、感情の波のせいにして
自分のせいだってことから
目を背けているだけだと思うんです。
つまり
水戸黄門で言うならば
「面白くないけど水戸黄門を見続ける」
「他局の面白くない番組を見る」
「見るのやめて何かほかに面白いことがないか探す」
の三択ぐらいしかないと思っているんです。
これって
全部ほかの何かに依存した考え方ですよね。
自分で工夫する
という意思がないんですね。
ですが
自分の意思を取れる存在って
自分しかいないんです。
ではなぜ
自分で工夫する意思を行使しないかというと
エンドルフィンが出て恍惚感を味わえ
病みつきになっちゃってるからだと思うんです。
つまり
・自分の意思に屈せる
→自分に負けられる(もうひとりの自分に勝てる)
→自分で自分を奴隷にできる
→自分で自分を苦しめられる
→エンドルフィンを放出し鎮痛することで、幸福感を得られる
→ハマれる
→また繰り返せる
という構図ができるから
目を背けていると思うんですね。
エンドルフィンって
脳内麻薬ですから
やめられません。
とはいえ
自分の意思を使えたら
本当は気持ちいいと思うんです。
そのためには
自分が普段どのようにものごとを捉えているか
に意識を向けるのは
大切だと思うんです。
自分でどのように
現実をとらえていくか
捉え方は選べて
現実はいかようにも活用できる
ということが理解できれば
意思って
自分が思う通りの現実を作り出すのに
活用できるんだと思うんです。
そのためには
常日頃、神羅万象あらゆる存在から、
意識的かつ無意識的に価値を見出す(結果的に対立構造が無くなる)
これをやっていくことが
まずは大切だと感じたのでした。
対立構造がなくなると
抵抗がなくなるので
意思を現実創造に使いやすくなりますからね。
というわけで
サンクスギビングワークを
これからも
続けていきたいと
思ったのでした。
最後までお読みくださり
ありがとうございます。
今日も素敵な一日を
お過ごしくださいね。
ではでは!
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