みなさま こんにちは
いつもお読みくださり
ありがとうございます。
今朝のワークショップで
「魔が差す」価値について
考えてみました。
「魔が差す」の解説
魔まが差さ・す
悪魔が心に入りこんだように、一瞬判断や行動を誤る。出来心を起こす。「―・して人の財布に手をのばしてしまう」
出典 デジタル大辞泉 https://kotobank.jp/word/%E9%AD%94%E3%81%8C%E5%B7%AE%E3%81%99-632673
「出来心」の解説
でき‐ごころ【出来心】
計画的でなく、その場で急に起こったよくない考え。「出来心でした盗み」 [類語]悪心・悪意・悪気・意趣・悪感情・邪気・邪心
出典 デジタル大辞泉 https://kotobank.jp/word/%E5%87%BA%E6%9D%A5%E5%BF%83-575319
旅行中に何回か
魔が差したなあ、と思うことがあり
と言っても
何かを盗んだとか
そこまで犯罪的なことでは
ないのですが
流されて
甘いものを
食べ過ぎてしまったとか
レンタカーだからか
普段ならやらない
ちょっと態度の大きい
運転をしてしまったとか
娘があまりにも食べるので
ちょっと見た目のことを
悪く言い過ぎてしまったとか
そんなことです。
でも
場の雰囲気に流されたなあ
とか
なぜあんなことしたのかわからない
という
自分じゃない感覚があって
気になったんですね。
できれば
魔なんて差してほしくないですよね。
そんな
「魔が差す」
出来心のような感覚に
価値があるのだろうか
と調べてみたくなりました。
で、
「魔が差す」があるおかげで、
実はみんなにとってどのように役立っているのか?
という質問を考えているとき
良いことだけは自分の手柄にして
悪いこと(ここでは食べ過ぎるとか、運転が荒いとか、ちょっとした嘘をつくとか)
は魔が差した仕業にしていることに
気がついたんです。魔という悪魔のせいにして
自分じゃなかったんですって
言っているような気がしました。
それって
酔っ払った人が
犯罪を起こして
お酒のせいにするのと
似ている感覚だと思ったんです。
魔が差さない自分にしてほしいと
神さま? にお願いしたりすれば
それは清らかな行いに見えますが
よく考えてみれば
責任転嫁も良いところで
「神さまに懺悔する日々の自分」という枠からは
出られない気がしたんですよね。
自分はちっぽけな
存在で
罪深い存在です、
と開き直っているような感じです。
魔が差すってとっても
都合よく自分の行いを
悪魔のせいにできる魔法の概念だと
気づいてしまいました。
結局
咄嗟の判断も
自分がやっているんですよね。
それなのに
都合のいいことだけ
自分の手柄
都合の悪いことは
誰か(何か)の仕業
としていたら
いつまでも
何かに依存し続けなければ
ならなくなります。
まずは
都合の悪い自分も
しっかり受け止めることが
大切だと思うんですよね。
どれもこれも自分次第で
自分で決めて動くだけだと自覚をし、
全ての行動に責任を持てたとき
人間としての
キャパが広がるのではないかと
思ったのでした。
最後までお読みくださり
ありがとうございます。
今日も素敵な1日を
お過ごしくださいね。
ではでは!
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